まだ遠い東日本大震災

はるさん/20代

東日本大震災が起こった年、私は中学1年生でした。 震災のその日は友達とカフェでおしゃべり。 周りから「東北で大きい地震あったみたいやで」と聞こえてきましたが、その時はよくあることだと思い、あまり真剣に受け止めていませんでした。 家に帰って、テレビで流れている津波の映像をみても、それもどこか他人事で本気で受け止められていませんでした。信じられない部分が大きかったのだと思います。 そこから9年。大学4年生になり、環境経済論の授業の中で、リアルな映像を初めて見たり被災者の方の言葉や生活を初めて心で理解しました。 かなり衝撃的で、もっと学んで行かなくてはならないなと強く感じました。 授業後にはYoutubeで津波など動画を見るようになり、東北に足を運んでみたい、行ってみなければならない場所だと思っています。 コロナの影響でまだ東北に実際足を運ぶのは、もう少し後になりそうですが、現地に行って、生活感を感じてみたいと思っています。

直前の避難訓練

ダニエルさん/20代

私は当時群馬県に住んでいました。群馬では震度5弱の揺れを観測しました。 小学6年だった私は、その時間は算数の自習をしており、自習プリントが終わって友達の席に遊びに行っておしゃべりしていたところガタガタと揺れ始めました。 自分の席に急いで戻り机の下に隠れ、揺れが収まると先生の指示に従い上履きのまま校庭に避難しました。 偶然にも私の学校は前日に避難訓練をしていたため、全校生徒の避難がスムーズに行われたことを覚えています。 小学生ながら避難訓練の大切さを身にしみて感じ、その後家族内でも緊急時の避難方法について話合いが開かれました。 地震が起こったらここに集まろう、誰々に連絡しよう、などを決めたのを覚えています。

震災の日

杏さん/50代

あの日は,主人はいつものように仕事に出かけ,長男は受験のため東京に向かい、次男は学校が休みでサッカーの部活に出かけて,地震の瞬間は私が一人で家に居ました。 携帯の警報から,今まで経験したことのない激しい揺れがどの位続いたでしょうか? 家に居ても,外に出ても身の置き場がなく私は出たり入ったりでした。 数十分揺れていた様に思います。次男が揺れが収まっ頃に、母ちゃん,大丈夫?生きてる?と近所に聞こえる大声で心配し帰って来ました。 サッカー場でどえらい地震だと思ったそうですが、どの程度の被害かが見当が付かなかったそうです… 幸い、私の所は,沿岸部ではないので,津波の被害はなかったものの,ライフラインは全て遮断,仕方なく次男と避難所に行き不安な夜を過ごしました。 主人とも長男とも連絡が付きお互い無事を確認し、程なく自宅に戻り荒れ果てた家の中を明るい内にと思い片付け始め, また夜になり蝋燭の生活が続き地震から4日目に電気が戻りました。 あの時の感激は忘れられません。色んなことが当たり前あると思っている自分にも気付かされました。 水道は,中々戻らずで,二週間次男と給水に走りました。 あの時程,息子に感謝したことは無いなぁーホント子供を産んで良かったと思えた日々でもありました。 あれから約10年やはり日々の豊かな暮らしの中で被災地に居た私も痛みが薄れつつあります。 津波で多くの命が奪われ、震災を機に生活が一変したり、まだ立ち直れなてない方々が沢山居ると思います。 もっと謙虚に真摯に普通に生活出来てることに感謝しなければならないとは思うと同時に、楽しむ気持ちも大切だと痛感します。 今またコロナ禍の中,生活も不安視されて来ていますが,希望を持って、明けない夜はないと信じて生きて行きたいと感じます。皆さんでこの危機を乗り越えて行きましょう。

阪神・淡路大震災から26年

しげさん/50代

あの日大切な知人を亡くした… 災害の発生は防ぐことはできない。 今現在、国際的に大きな影響を及ぼしている 新型コロナウイルスの感染拡大は深刻です。 こうした環境下で地震などが発生する 可能性はゼロじゃない。 まさに複合災害。我が家は1月17日を 避難グッズの再点検日にしています。 自然災害は必ず発生すると思っています。過去の災害を教訓にいざという時に備えることは大切です。 その為にも過去の災害は風化させてはいけないのだと思います。

これが震度5強?

ぶろっこりさん/50代

あの日、私はパート先の家電量販店で接客中でした。 別のスタッフが対応していた若いカップルの男性が『地震だっ』と叫びました。 細かい揺れから全身を振られる強い揺れからしばらく続きました。 私は周囲の人に『頭を守って!』『下に伏せて』と叫び、自分自身も小さな椅子を頭にかぶりました。 周囲は失笑していましたが、後で確認すると天井の石膏ボードが各所で落下。商品も展示物も大きく移動していました。 業務用のパソコンで確認すると東北で大きな地震。私のいた千葉は震度5強でした。大きな地震です。 いいえ、そうでもない?実は 私は阪神淡路大震災を大阪で経験しています。あのとき大阪は、震度4でした。私は震度4の方が恐かった。 1995年と2011年では地震の基準も表現も変化していますが、関東の人が経験した311は東北のほんのオコボレだと思います。 被災地に近ければ近いほど、もっとすべてがリアルです。関東の人はあの時の経験を過大に記憶しています。 26年経ってしまった阪神淡路大震災の直下型地震の被害をもっと検証し、備えなくてはならない。そう思っています。

情報の大切さ

葉月さん/50代

その日は午前中仕事で、幼稚園に娘を迎えに行き帰宅していました。 お昼を食べ終わり寛いでいると 震度6弱の地震。 隣の主人の実家に遊びに行っていた娘を心配しました。そして小学校に長男と次男を迎えに。 校庭で避難している子供たちを引き渡しの最中も余震が何度もあり、山からは黄色い煙が立ちのぼっていました。 杉の花粉が振動で舞っていたのです。 主人は帰宅できず、余震が何度もある一夜を過ごしました。 それから電気も水道も止まってしまったので、小学校に自衛隊が来て水を貰うのが日課になりました。 携帯の電池を気にしつつ朝と夜だけワンセグを使っていました。 福島第二から100キロ圏内なので気にしていたのですが、爆発したことは夜になってから知りました。 爆発した日も何時ものように水をもらいに野外で並んでいたので影響はあったと思います。もしかしたら恐ろしいことになっていたのかもしれません。迅速に情報があればと悔やまれました。だからおしるこさんの防災グッズを参考にして用意をなさることをお勧めします。

阪神淡路大震災からの学び

めりーさん/50代

私が経験した大きな地震は、阪神淡路大震災でした。 仕事で帰るのが明け方のため、いつものようにその日はまだ眠っておりました。 すると突然、ドン!グラグラ!グラグラグラー!といきなり家が揺れ、一緒に寝ていた犬も主人も飛び起きました。 家具が倒れるまではいきませんでしたが、今までに感じたことの無い揺れで本当に怖かったです。 直ぐに隣の部屋で寝ている主人の両親のもとへ行くと、すでにテレビのニュースが流れており、大阪の高速道路が横向きに倒れている画面が写しだされていて、何がなんだか映画の一場面のようで、この画面を通してとんでもない地震が起こったんだと実感しました。 あれだけ関西は地震はこないと根拠のない噂を芯から信用していたので、本当に本当に、恐ろしく思いました。 それからは、「地震はどこに来てもおかしくないことやから、心の用意も逃げる用意もわすれたらあかん」と胸に刻んでいます。 それから、隣近所との付き合いも大切に、とも。

病院にて

はるみさん/60代

2011年3月11日、看護師さんが主人の点滴交換をされ「また、様子を見に来ます」とにこっとされました。 主人と私はあの様な笑顔の素敵な娘が欲しかったなぁ〜と2人で話ていたちょうどその時、あの地震が…。 点滴のポールは足で即座にくい止めて 主人と私は身動きが出来なかったため、布団を頭から被り地震の落ち着くのを待ちました。 ようやく収まったので周りを見に外の廊下の置くの非常階段の所まで行ってみると、 螺旋滑り台はブランコの如く揺れていて、これじゃー役にたたないなーと感じました。 談話室では大きなテレビで東北の被害が映し出されていて、皆さん固唾をのんで見入っておられました。 先生、看護師さんはそのテレビも見ないで自分のお仕事を全うされていて、感心させられました。

本当に怖いと思った地震

がんタンさん/60代

八百屋さんをやって居た頃です。突然落ちるような縦揺れの振動。 店内からお客様を出して広場に避難指示し最後に店の出口から道路を見て、今まで体感した事も無い揺れを目の当たりにした時「恐ろしい」と初めて思いました。 地面がスローモーションの様に波打っていたのです。 良く建物や地面が崩壊しなかったなと思い、恐怖を感じました。 あの時の感覚は一生忘れられない恐怖でした。

あの日を境にして

シマさん/60代

3・11当日私は、盛岡市駅前にある飲食店から、姉妹店の従業員への弁当を作り、配達中でした。 場所は、開運橋の歩道橋のたもと、自転車屋さんの前で、信号待ちしていました。 突然地面が揺れ出し、歩道橋が右に左に、橋向かいのビルが右に左に揺れ出して、周りの人たちが騒ぎ叫んでいました。 歩道橋の上には、男子学生さんが歩いていて、手摺りに掴まっていました。 姉妹店へ着きましたが、電気は止まり、手持ちのペンライトで照らし出すと店内はグラスや食器が散乱していて、足の踏み場の無い状況でした。 その後店の宣伝を兼ねた弁当作りが始まりました。店の宣伝に疑問を感じていましたが、人員削減の対象になり、会社を首になりました。 その後店は内容や従業員を大幅に入れ替えて別な飲食店として営業しています。社長初めとして経営陣も変わる結果になりました。 あの日を境にして、人生が大きく変わった方々が沢山居ると思いますが、あの日を忘れずに明日に向かい前に歩んで行き生きていきます!

久し振りの休暇にて旅先での体験

マモさん/70代

3月11日。私は栃木県にあるホテルにいました。 ちょっと遅い昼飯をそば屋で頂きホテルに戻り さっそく温泉に入るためホテルの地下2階へ。 衣服を脱いで湯舟に入るために身体を洗い始めたら 突然 湯舟の湯が波打ち始めました。 立とうにも真っ直ぐ立てず支柱を掴みました。 ビルが崩れるかと思うほどの建物の軋む音がゴッンゴッンとし、 浴場を脱いだ脱衣所は既に明かりも消えていました。 館内放送で1階のロビーに集合の合図がありましたが、暗くて衣服を手探り状態。 やっとの思いでロビーへ出たものの、 浴衣1枚で体は冷え切っていました。 8階まで着替えようとしましたが、エレベーターが使えず暗い階段利用で部屋に戻りましたが、部屋の窓は揺れで開いた状態で 荷物も散乱してました。 ホテルでの食事が出来ずホテル側は乾き物でしのいでと気遣ってくれましたが 水物は一切なし自販機も停電で使用不可能。 その上ロビーも危険らしく、玄関先のバスへの移動指示しました。 バス内も暖房なしで冷え切っており、 ロビー入り口のドアがバタンバタンと外れて揺れていました。 系列の鬼怒川温泉まで移動して食事はおにぎり二個とお茶が晩ごはんでした。 翌日1泊料金だけは支払ってホテル側のバスで出発しました。 東京には帰れないと言われてしまい、朝8時鬼怒川出発でしたが、千葉松戸に着いたのは23:30でした 。 ブルーシートを掛けた屋根無しの建物を見ながら、飯も食べずに臨時バスでの長~い道のりでの帰宅となりました。